crossover
Andrew WeatherallのCD<The Bullet Catchers Apprentice>を購入。
アンディーの音源を買うのは久しぶりだな。一時期Two Lone SwordsmenやSabers of Paradiceにハマってたが。UKのアングラシーンでは絶大な信頼感を誇る・・・などなど音楽誌、ライナーやフライヤーで謳われているがその真偽、程度のところは実は定かでない。そのテの謳い文句が氾濫していることもあるんだろう。キャリアの長い大御所系だがパンク、ダブ、エレクトロ、ディスコあたりを刺激的にブレンドするのが彼流だ。
UKに限らず、アングラミュージックシーンで「クロスオーバー」という単語のもとに高い評価を受けている人は多い。実際アングラミュージシャンのほとんどは、たとえそれが「理想」に過ぎないとしても、限りなく自由な一個人だ。だからこそ彼らのフットワークは軽いし、そもそもあるのかないのかもよくわからない「ジャンルの壁」とやらも越えていく。
そういった人達のインタビュー記事を見ていると案の定、誰一人として自らのことを「○○ミュージシャン」とは呼ばない。せいぜい口にするのは「○○から影響を受けた」どまりだ。彼らにしてみれば意識されるべきは「ジャンルの壁」ではなく、「己とその外の間の壁」ってところなんだろう。
とまぁツラツラと書いてきたのも、自分に振り返った時にインタラクティブアートだの、メディアアートだの、インスタレーションだの、言わば現代アートにおけるジャンルとその住み分けの様なモノをうっとうしく感じるからだ。海外ではどうなのかよくわからないが、少なくともここ日本では、アカデミズムと仲の良い分野だけにより堅牢な「壁」の存在を感じとれる。さらに文部省も「メディア芸術」なんて言いながら介入してくるもんだから、「壁」はさらに厚みを増す(<文化庁メディア芸術祭>に出品するときに、例えば「インタラクティブ部門」と「インスタレーション部門」のどちらに入れるか迷い、どちらかしかないことを憾んだ人は俺だけじゃないはずだ)。今、日夏露彦の「日本美術・負の現在」を読んでいるからそれに感化されている部分も正直あるとは思うが、理想とはいえ「自由」を望んで進んだ世界に不自由と閉塞感を感じることは否定できない。
とはいえ、アカデミズムや行政といった「権威」と対立して活動しても、「明日のメシ」に繋がらないのも厳然たる事実。アングラミュージックシーンの様な「アングラ」のための土壌は、ここ日本には無いに等しい。「とりあえず名を売る」ためにNHKに出て、ある程度売れたら舞台専門となった我らが先輩、「ラーメンズ」の選択はある意味で正しいし、賢いと言える。でもそれで本当にいいのか?
皮相にして悲壮なる国、ニッポン
この世界で生きると決めた者は皆、この点を考える必要がある。
その上で腹を決めないことには、より強い自由(あるいは不自由)に圧殺されてしまうだろう。
俺、どうしよう。