message for graduators (or for gladiators)
今回は先日卒業した学生たち(後輩たち)に向けて
父兄の方々も見守る授与式で大したことも言えなかったのでこの場を借りて
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唐突だがオレの親父の話を
親父は自分が行った店で不誠実な対応をされると、よくその店員を叱りつける。相手が日本人だろうが外人だろうがおかまいナシ。そうした時オレはたいがい「まぁまぁ」といってなだめつつ、「もう少しおおらかにいこうぜ」と諭すのである。それでも親父はおかまいナシ。オレが何を言っても機嫌はなおらないのだ。
これだけ読むとただの短気な頑固オヤジを想像するだろうが、ただの頑固では片付けられない、なにか「強い決意」の様なものをその時の親父から感じたのである。
親父は海外での仕事が多かった。当然外人相手の取引や商談も多かっただろう。以前こんなことを言っていたことを思い出す。
「軍隊をもたない日本(人)は、ただそれだけで外国(人)から馬鹿にされる事がある」
オレはその時は強く異を唱えたし、そんな罵詈雑言は放っておけばいいと思ったが、この頃その真意についてよく考える。
愛国心と軍隊は容易につながるが、それが必ずしも「好戦的意識」である事にはならないと最近思う。早い話、いざという時に武器を手にしてでも自国とその誇りを守ろうという「覚悟」があるか否か。家族や親しい人間を守ろうという「覚悟」があるか否か。軍隊の有無とその有り様は、その「覚悟」のバロメーターとしてはたらく。外国(人)から馬鹿にされる理由は、その「覚悟」の欠如からくるんだろう。
もちろんオレも親父も軍国主義者じゃない。70年前に戻りたいとも思わない。それでもピースサインを掲げられるのも生きていればこそで、問答無用で向かってくる「いざ」に対しては全くの無力なのが現実。それでもなお掲げたいのなら、戦う覚悟がいる。
ただ、平和に慣れきったオレ達が「いざ」って時に本当に戦えるのかは正直なところ心もとない。そんな本音があるからこそ、腹を据えて「ナメんなよ」と言い返せないことに当時の親父はもどかしく感じたんだろう。
だから親父は「覚悟」の代わりに「誠実さ」を武器に戦った。
馬鹿にされようが、ナメられようが、とにかく「誠実」に相手と向き合って、いくとこまでいったんだと思う。「誠実さ」は日本人の専売特許じゃないが、「愛国心」を武器に敗れてからは、「誠実さ」を武器にここまで豊かになったのは一つの事実。オレ達の親父の世代にはそんな誇りがある。だからたとえ些細な事であれ、「不誠実」に対しては徹底的に戦うということが、その時感じた親父の「強い決意」だったのかもしれない。
さて、
オレ達は何を武器に戦うか?
「誠実」は未だ有効か?
何に対して「誠実」であるべきか?
これからどうやって食っていくか、何を作ろうかという目先に転がる問題も大事には違いないけど、この際もう少し大きな枠で自分の大義を見つめてみてはどうだろう?「自分、自分、超自由」なご時世だけど、社会の一員となって初めて「社会人」。せっかくこの社会・時代・世代に生まれたんだから、横にいるヤツ(ら)の面構えと本音を意識しつつ、建設的な野望をもって、いくとこまでいってほしい。
卒業おめでとうございます